*雪国まいたけ
http://ja.wikipedia.org/wiki/雪国まいたけ
1.役員の異動
(新任取締役候補)取締役兼執行役員 鈴木邦夫
(現 執行役員 社長特命担当兼循環型農業団地プロジェクトリーダー)
2.異動予定日
平成22年6月29日
*特別企画 株式会社雪国まいたけ[1378] (IRマガジンvol.87 2009年秋号)
http://www.net-ir.ne.jp/ir_magazine/special/vol087_1378.html
強い信念がよのなかを変える。
幻のきのこを現実のものにした会社が『循環型農業団地構想』で未来の「食」を確かなものに!
図解! 循環型農業団地構想とは?
http://www.net-ir.ne.jp/ir_magazine/special/images/vol87/1378_09_l.jpg
食の安全、先進国中最も低い食料自給率、高齢化する農業人口――。私たちの命を支える「食」は危機に晒されているといっても過言ではない。
しかし、こうした危機の突破口が開かれるかもしれない。かつて幻といわれたきのこの人工栽培と工業化を成し遂げ、食の安全が叫ばれる現状を20年も前に予見していた会社「雪国まいたけ」がカット野菜に進出する。
そして、将来的には、農業を工業化し、食物を安定供給するだけでなく、その栽培に必要なエネルギーも自然エネルギーで賄い、環境負荷の低減を実現するという。一見すると、何の関わりも見えてこないカット野菜と循環型農業団地構想。そして、それが日本の食をどのように救うのか。そのつながりを探るためには、雪国まいたけの過去から現在までを紐解く必要がある。
始まりは 太もやし栽培!
今からさかのぼること約35年。資本金70万円を元手に、当時1000万円は必要とされていた「もやし」の栽培設備を自らの手で作り上げ、試行錯誤の結果、当時は珍しかった「太もやし」の生産に成功した人物が雪国まいたけの大平喜信社長だ。
もやし栽培を始めた当時、太もやしを生産できる企業は、日本国内で2社しかなく、その栽培方法を教えてくれる生産者は皆無。もちろん周囲は「できるわけない」の一点張りだった。 「太もやしをつくるには、小屋のなかでストーブをたいて不完全燃焼させるらしい」というヒントだけを頼りに、大平社長は挑戦を繰り返すが、「少し太くなってきた」と喜んでいると、翌日には腐ってダメになってしまう。
あくる日も、あくる日も試行錯誤の繰り返しだった。ある時、研究熱心な大平社長の頭に「もやしは土のなかで芽を出さなければ、根を張ることができない。だからもやし自身、湿った土に根を張って、乾燥から身を守らないと生き残れないことを知っている。『ここが命を次につなぐのにふさわしい場所』かどうか、もやしはどうやって判断しているのだろうか……」そんな疑問が浮かんだ。その疑問を追求し、検証しつづけた結果、どうやら生存の秘密は「二酸化炭素の濃度にある」という答えにたどりつき、見事、生産に成功。栽培を始めてから、3年の年月が過ぎていた。その時、大平社長は確信した。「できないのは途中であきらめるからだ。あきらめなかったらいつか必ず実現できる」
自分が口にしたくないものは 絶対に作らない、出荷しない!
ようやく出荷できるようになり、地域のもやし市場を席巻するようになってから1年半ほど経つと、その方法を知った同業他社が次々と太もやしの生産に成功し、市場に参入してきた。
すると、それまで太もやしの価値を認め、購入してくれていた流通店が、「大平さんのところのもやしは色が悪い」ということを理由に、取引を渋るようになった。同業他社は見た目がきれいな、漂白した白い太もやしを流通させ始めていたのだった。 すると、大平社長は1980年、年商4000万円(年産350~400トン)にまでなっていたもやしの生産を、それ以上無理に拡大するのをやめてしまう。理由は「漂白したもやしは、自分が食べたくない。そんなものを生産して、消費者に売りたくないから」。
嘘が大嫌いな大平社長は、「金儲けのために、消費者がわからないからといって、自分が食べたくないものを作りたくない。後から、消費者に『漂白されているものだったら食べなきゃよかった』と思わせることはもっと嫌だった。そこで、漂白されたもやしが主流の市場に自分は合っていないと思った」と言う。
そして、「きのこなら、漂白剤も、保存料も何も必要ないだろう」との思いから、当時は幻のきのこといわれていたまいたけの栽培に参入する。しかし、農薬が不要だと思ったきのこの栽培でも「この農薬を使えば、雑菌が繁殖しませんよ」とすぐに、農薬販売者が訪ねてきたという。 「確かに、20年前は、手間をかけず効率的に、安くて見た目が良くて、おいしく食べられる、ということばかりを誰もが望んでいた時代だった」と大平社長は当時のことを振り返る。
それでも農薬や化学肥料は一切使わないと決めていた。食品添加物も次々に認可されていたが、「このままでいけば、いずれ使いすぎることになり、社会問題になってくる。そうした時代になったら、やっぱり安全が大事だという方向に立ち戻るにちがいない」と考え、きのこの生態研究を突き詰めて効率化を図ることで、農薬も化学肥料も使わないきのこ栽培の工業化へ突き進んでいった。
まいたけが自生する山奥の移ろいを再現。まいたけの人工栽培に成功!
まいたけ栽培のスタート当時は、もやし同様に苦労した。2カ月間、菌を仕込んでも仕込んでもきのこは出ず、日々、廃棄処分が増えるばかりだった。
しかし、ある気づきをきっかけに、適切な処置を施すと、当時「幻のきのこ」と呼ばれていたまいたけが育ち始めた。とはいえ、収穫効率は現在の半分以下。それでも大平社長は「まだ産声を上げたばかりの産業だから、私が日本で一番先にまいたけの量産技術を開発するぞ!」という目標を打ち立てた。
「まいたけは自生しているものをとってくるもの。人工栽培なんて絶対に不可能だ」といわれていた時分のことである。 量産技術は少しずつだが、確実に構築されつつあった。
次に大平社長が考えたのが、「従来の流通経路ではなく、独自の直販ルートを確立する」ということだった。農協、全農、経済連、青果市場、仲買、小売店、消費者へと渡る従来の流通ルートで販売していたら、競合の出現で市場はあっという間に販売価格だけが競争の焦点になる。「それでは、いいもの・きちんとしたものを消費者に継続的に届けることが難しくなる。品質保証体制を強化し店頭に入れるまで自社で責任を持ちたい」と考えたからだ。
量産技術と直販ルートの確立で 独自のビジネスモデルを構築!
「無理だ、無謀だ」と揶揄されながらも、至上命題だった量産技術と直販ルートの確立に邁進し、全国展開している大手スーパーマーケットの店頭に「雪国まいたけ」が並ぶようになったのは83年のことだった。
それから2年もしないうちに、大資本を持つ大企業が「アグリビジネス」としてきのこ事業に参入してきた。そこで大平社長の次なる目標が出てくる。それは、「どんなに大きな企業が参入してきても、適正価格でいいものを販売しつづけるために、全国のまいたけの価格をうちの会社がコントロールする」というものだった。
日々、研究や努力を重ね、生産コストを下げていく。そして、コストが下がった分はすべて販売価格に反映させる。良い品質を保ちながら、安定的に低価格で提供すること、これが最大の参入障壁となる。理想にすぎないと笑い飛ばされながらも、そうした実にシンプルな手法を用いて、高い参入障壁を築き、現在の業界地位を作り上げてきた。現在は、まいたけ・えりんぎ・ぶなしめじの三本柱が整い、「きのこ総合企業」としての基盤が確立。2004年には、それまで細々と続けていた無漂白の「雪国もやし」の専用大規模工場を建設するとともに、またユニークなCMをはじめとする積極的な拡販が成功し、売上構成比のバランスも上々だ。
「不可能だと思い込んで、自らが行動を起こさないために、実現しないことが多いのではないでしょうか」とは、大平社長の言葉だ。周囲に絶対にできないといわれても信念を持ってやり遂げていく、それが創業から続く雪国まいたけのDNA。大平社長の言葉を借りれば、「現在の非常識を未来の常識に変えていく」 ――このように、いくつもの不可能を可能にしてきた強い信念が、まったく新しい可能性を切り開き、未来を創り続けていくにちがいない。
(wikipedia参照)