浅野俊雄
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新潟日報 2011年4月2日
島根県議選松江選挙区で12回連続トップを狙っていた「山陰のドン」浅野俊雄県議(80)=自民=は無投票当選となり、記録が途絶えた。
ギネス記録申請も検討していたという支援者は残念そうだが、浅野氏は「当選は当選。楽していると言われぬよう頑張りたい」と笑顔をのぞかせた。
松江選挙区が無投票になるのは戦後初。どの政党も新人の擁立が進まず、定数と同じ10人しか立候補の届け出がなかった。
浅野氏の県議初当選は「参院のドン」と呼ばれた青木幹雄元官房長官と同じ1967年。44年間の在職中に県議会議長などを歴任、「自民王国島根」の長老となった。
支援者の一人は「これだけ圧倒的な強さで勝ち続ける人は少ない。なかなか出せる記録ではないので本人も残念だろうが、当選が何より」と喜んだ。
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「島根に生まれ、島根に育ち、やがて島根の土になる」――。第二十八回衆院選が公示された一九五八年五月一日。出雲市の目抜き通りで、竹下登が後に名演説として語り継がれる第一声を上げた。三十四歳。五尺四寸(一・六メートル)の青年は、まだ“悪童”の面影を残していた。二か月前に、秘書になったばかりの青木幹雄(68)(現自民党参院幹事長)も悪童に寄り添い、遊説に奔走した。
全県一区、定数五。桜内義雄(90)(元衆院議長)ら現職五人を含む七人が立ち、六人は明治生まれ。大正生まれの竹下の立候補は若者たちの反乱でもあった。
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終戦直後から、竹下とともに、青年団で汗を流した落合良夫(77)(元掛合町長)は「青年団の折衝ごとの帰り、国鉄出雲市駅から、二人で斐伊川沿いを掛合まで歩いた。木炭増産ですっかり丸裸となった赤茶けた山肌が見えた。竹下先生は『国破れて山河ありだなぁ』としみじみと言った」と、原点を振り返る。
それから十年余り。五六年六月に出雲市を地盤としていた自由党(当時)の元衆院議員高橋円三郎が急死した。当時、県議二期目だった竹下は、一周忌が終わったころ、青年団仲間の浅野俊雄(72)(現自民党県連幹事長)らに「地盤を引き継ぐ」と言った。選挙を前に、県内各地の遊説が始まる。青木が仕切り、早大雄弁会の後輩、森喜朗(65)(元首相)も島根入りした。
開票日の五月二十二日深夜。出雲と松江の両市内にあった選挙事務所のトランシーバーがひっきりなしに鳴った。集計表は千票、二千票と増え、九万五千六百十一票でトップ当選した。
浅野は「立会演説でも『イギリスの民主主義とは……』とかいう話で、幼稚園の先生よりも迫力がありゃせんと、思ったもんだわね。でも、先生は『この選挙はしがらみも何にもない若者が、国や島根を変えようと挑んだ』と、言っとった」と述懐する。
その後、竹下は連続十三回当選し、四十七歳で佐藤内閣の官房長官に。八七年十一月には第七十四代首相に上り詰めた。
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国のトップに立っても原点は「ふるさと」だった。首相時代に実施した「ふるさと創生」事業で、全国の市町村に一律一億円を交付した。“ばらまき”批判も浴びたが、落合は「竹下先生からハコ物などに安易に走ることをいさめられた。ふるさと創生に込めた願いは、地方が智恵を出せということ」と、その思いを代弁する。
だが、竹下が地歩を固めるにつれ、古里は衰退。九三、九六年、二〇〇〇年の総選挙で戦った錦織淳(57)(元衆院議員、弁護士)は、「竹下さんに代表される自民党政治は、都会中心の高度経済成長を支えるため、地方から人や資源、富を吸い上げた。その“罪”のあがないとして、おこぼれ程度に公共事業を割り振り、批判を抑え込んできた」という。さらに、「島根竹下派は、やる気のある人や、古い体質を乗り越えようとする人をスポイルしてしまう。ものが言えず、だれも戦わなくなる。これが島根にとって罪深い」と言い切る。
五五年の国勢調査で県人口は九十二万九千六十六人。竹下が死去した二〇〇〇年に七十六万千五百三人にまで落ち込んだ。