孫文
映画「孫文の義士団」
南魚沼産コシヒカリ 4.14 12:10 産経ニュース
近代中国の幕開けとなった辛亥(しんがい)革命から今年で100年。革命運動の指導者、孫文にかかわった日本人や在日華僑の人名録づくりが、日本で唯一の孫文記念館(神戸市垂水区)で進められている。宮崎滔天(とうてん)や梅屋庄吉といった文献に登場する有名人だけでなく、市井の人を発掘することで日中交流の深さを浮き彫りにしたいという。中国、台湾双方で偉業がたたえられる希少な人物だけに、日中台3国の絆を強める事業としても期待されている。(安東義隆)
孫文記念館は明石海峡を望む海岸にある。もともとは有力華僑、呉錦堂の別荘の一部。別荘では大正2(1913)年3月に、神戸の政財界有志による孫文歓迎の宴が開かれた。館長は中国近現代史が専門の安井三吉・神戸大名誉教授で、人名録づくりが「孫文と日本との関わりをさらに深めることになる」と話す。< /DIV>
孫文は中国との玄関口だった神戸港から度々入国。長崎、福岡、熊本、横浜、東京と各地で政財界の有力者から活動資金などの支援を受けた。計18回立ち寄った神戸では、川崎造船所の社長だった松方幸次郎が当時の中国政府と敵対していた孫文を造船所の岸壁から上陸させ、かくまった。
兵庫県庁舎脇の記念碑には大正13年11月、ここにあった神戸高等女学校で、孫文が「大アジア主義」を訴える講演を行ったと記されている。亡くなる数カ月前のまさに「遺言」だ。武力で従わせる西洋の「覇道」ではなく、東洋は徳によって慕わせる「王道」を行くべきだ-と、アジア諸国の連帯を呼びかけた。
当時、日中とも西洋列強の圧力に悩まされていた。日本は不平等条約撤廃に成功、日露戦争に勝利し、アジアのリーダーとしての地位を占めつつあった。そんな日本を手本とし、支援を期待したが、列強と同様の態度で中国に臨む日本を憂えてもいたという。
孫文は大正2年から5年にかけて東京で、政治団体「玄洋社」の総帥、頭山満(とうやま・みつる)の隣家に身を寄せていた。その間、日本政府は孫文がいつ、どこで、誰と会ったかを監視していた。その記録が今も外務省に残され、閲覧可能だ。
人名録づくりは、これをもとにリストアップ、可能な限り生年没年、出身地、肩書なども記載する。千人を超える見通しで、今年11月にも発表する。その人物を子孫や関係者が確認すれば「新たなエピソードの発見につながるかも」と安井館長は話している。
◇
【用語解説】辛亥革命
中国で共和制国家樹立に道を開いた革命。1911年10月、武昌で軍隊が蜂起したのを機に清朝打倒の運動が拡大。翌年1月、孫文を臨時大総統とする中華民国が建国され、2月に宣統帝が退位して260余年にわたる清朝支配が終わった。孫文は大総統の地位を袁世凱(えんせいがい)に追われて亡命。革命の完遂を目指し度々来日し、政財界の有力者に支援を求めた。梅屋庄吉、宮崎滔天、頭山満といった人物に支えられたが、25年に病死した。